大きくする 標準 小さくする

J.S.K.S.増刊号

回想

投稿日時:2023/09/13(水) 06:03

(4年 LO 長井宥磨)

 

りと比較されることから逃げ続けてきた。おんなじ評価シートの上に置かれて、才能がないことを顔面に突きつけられるのが怖かった。だから、窮屈な隙間に棲みつき、個性という名のベールを被せて小国の長を名乗り続けている。

 

えば、苦しくなるほどに何かに打ち込んだ経験がない。習い事にしたって、部活にしたって。幼い頃から、ほどほどの体躯と身体能力があったからか、何かを始める時には先頭集団を走っていることが多かった。流石だね、なんて言われ気持ち良くなって一瞬努力の手を止める。新米ギタリストにとってのFコードのように、少しばかり込みいった位相に置かれた時には、腰が引けはじめる。リードがある時間は束の間で、ほどなくして先頭集団に置いていかれ、後続に並ばれ、次に顔を上げた時にはしんがりにいる。耐えきれず、次の居場所を探す。”対峙”することに及び腰であり続けた22年間である。

 

宿で目の醒める経験をした。

肌がちょうどミズナラの枯葉くらいの色味に仕上がった7日目、東西交流戦が開幕。JSのボーダージャージに袖を通したいところだったが叶わず、代わりに日大経法の一員として貸し出されることが決まっていた。相手は、JSKS。予期してはいたが、まあ驚くほどの惨敗だった。自分が所属するチームに、無力感を抱く経験は後にも先にもないだろう。ともあれ、足りない実践経験を積む貴重な機会となったわけで、大変に満足している。

“目の醒める”と記した瞬間は、ハーフタイムを過ぎて訪れる。後半から出場していた平田雄音也(4年 FL)がキャリアーとして迫ってきた。加速度を持って、確実なゲインを切っている。対して、この瞬間チームで当たれる人間は自分だけ。

『さあタックルに入ろう』

と心に決めた瞬間、視線が交差した。その刹那、高校時代をふと思い出した。

 

音也との関係は今に始まったものではなく、7年ほど前まで遡る。俺は内部進学で、雄音也は外部受験で慶應義塾志木高校の校門をくぐり、一年目からクラスメートとなった。同時に、ともにボート部に入部した。ボートは、俺たちのように未経験者がほとんどで、特に始めたては体の大きさがモノをいう。身長や体重で十分な資質があった上で最後は技術の習熟によって差が生まれる、そんなスポーツである。やっぱり俺は体格と身体能力の貯金のおかげで順調な滑り出しだった。それも一年生にしてAチームという形で。ただ、努力をやめてしまった。辛い練習から目を背けてしまった。最後は、BチームはおろかCチームで幕を閉じた。一方の雄音也は、真逆のグラフを描いていた。雄音也は特段身長が高い訳ではない。特に漕手(ボート競技で、実際に船を漕ぐプレイヤー)の中では、かなり低い方だろう。体格的なディスアドバンテージも作用して、一年次、雄音也は活躍の機会を与えられることはなかった。それでも腐らず鍛錬を積み、次第にAチームに呼ばれるようになり、最後は県大会の上位に食いこんだ。不利があったとしても実直に取り組んで最後は周りを納得させる。彼の”対峙”する姿勢は、時間をともにした人間なら誰もが知るところである。

 

学に入学しなんの縁かJSKSで再会した。2人ともドがつく初心者、今度も同じスタートラインから。高校の時と違うのは、周りを経験者に囲まれているということ。2人とも、憧れのスポーツ、ラグビーへの緊張感と高揚感で胸を躍らせていた。あれから3年と少しが経った。俺は紆余曲折を経て、ITにちょっと強い半人前のLOに、雄音也は誰もが認めるFLに。タックルに入る直前、脳裏に浮かんだのは『ラグビーでもやっぱり敵わないのか』という言葉だった。俺がふらふらと流浪していた4年弱、雄音也は努力をやめなかった。堆積した少しずつの差は、こんなにも大きな距離を生むものなのか。頭を殴られたような気分だった。

 

調に歳を重ね80代で死ぬとしたら、大体1/4が終わったことになる。ラグビーでいえば前半の20分。”対峙”する最高のチャンスが訪れた。努力すること、苦しみに向き合うこと、非凡な才能などないと認めることから逃げてきた人生に終止符を打とう。それに、俺には、高校時代からの友人に一番のロールモデルがいる。背中は随分と遠くに行ってしまったけれど、かすかに見える。

 

待っててな、雄音也

完全無欠で優勝しよう、JSKS

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記事タイトル:回想

(ブログタイトル:JSKSラグビーフットボールクラブ)

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